ブラザーズ珈琲物語11
ブラザーズ珈琲の由来
後日談ではないが、一か月社長が入院して経営をほったらかし状態にしている時も、専務をはじめ社員たちは更に結束固め、安い給料ながら良くぞこの会社を守ってくれたものだと感激したものだった。
あれから9年ブラザーズ珈琲は発展しているのか、衰退しているのか誰もが気になるところである・・・。
これが簡単には言えないところである。
勿論、経営状態は決して楽観できないが、寧ろ、夢の潜水艦ノーチラス号みたいなものである。
何だそれはと言われる方も多いかと思うが、その心は、ほとんど浮上しないである。
かと言って開き直っているわけではない。
起業の動機を共有した兄貴とブラザーズ珈琲の夢は勿論であるが、更にその以前にこの献上珈琲を完成させた元祖の人物がいたのである。
私の師匠は以前にも紹介した石門コーヒーの石門安定氏であるが、石門安定氏には更に師匠がいたのである。
ナイス珈琲の店主である。
この人の名前が出て来ないのであるが、今はノートを調べているところであるので直ぐに分かることである。
この人物が私が珈琲事業をはじめた動機の一つになった事は間違いない。
江府町出身だったと記憶しているが、戦前世界中を調理師として周りあらゆる料理作れる特殊な調理技術を持っていたらしい。
というのは私はその方にお会いしたことは無いからである。
日本が敗戦して故郷に戻ってみると何にもない、御先真っ暗だったという。
それは建物や道路等のインフラはもちろんの事ではあるが、人々の心が暗く、明るい夢も希望もなくこれからどうしたらよいか全く予測がつかず暗澹たる状況だったのである。
これは米子や鳥取県だけでなく、日本中が同じような状態だったであろうことは想像に難くない。
そのような時、自分に何が出来るのか料理人としての腕前には自信があったが、その時は料理を楽しむなどという余裕など無かったのは当然である。
そこで思い立ったのが自家焙煎珈琲として始めたナイスコーヒーだったのである。
コーヒーを通してみんながリラックスして、明るさを取り戻してほしい、希望を持ってほしいという願いを込めて始められたのある自家焙煎コーヒーである。
実にナイスなことでないか。
そのことの故か米子の喫茶店数は全国の中で最近まで人口比にして一位であった。多くの人々はその理由は知らなかったが実はこのようは人の思いが込められていたのである。
今日はここらで終わりとしよう。