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【令和4年1月1日(水)より】小売価格改定(値上げ)のお知らせ2022年1月1日(水)よりブラザーズ・コーヒー全商品の小売価格を15%~20%値上げ致します】 



 

ブラザーズ珈琲11

  ブラザーズ珈琲物語11

ブラザーズ珈琲の由来 

後日談ではないが、一か月社長が入院して経営をほったらかし状態にしている時も、専務をはじめ社員たちは更に結束固め、安い給料ながら良くぞこの会社を守ってくれたものだと感激したものだった。 

 あれから9年ブラザーズ珈琲は発展しているのか、衰退しているのか誰もが気になるところである・・・。

これが簡単には言えないところである。

勿論、経営状態は決して楽観できないが、寧ろ、夢の潜水艦ノーチラス号みたいなものである。

何だそれはと言われる方も多いかと思うが、その心は、ほとんど浮上しないである。

かと言って開き直っているわけではない。

起業の動機を共有した兄貴とブラザーズ珈琲の夢は勿論であるが、更にその以前にこの献上珈琲を完成させた元祖の人物がいたのである。

私の師匠は以前にも紹介した石門コーヒーの石門安定氏であるが、石門安定氏には更に師匠がいたのである。

ナイス珈琲の店主である。

この人の名前が出て来ないのであるが、今はノートを調べているところであるので直ぐに分かることである。

この人物が私が珈琲事業をはじめた動機の一つになった事は間違いない。

江府町出身だったと記憶しているが、戦前世界中を調理師として周りあらゆる料理作れる特殊な調理技術を持っていたらしい。

というのは私はその方にお会いしたことは無いからである。

日本が敗戦して故郷に戻ってみると何にもない、御先真っ暗だったという。

それは建物や道路等のインフラはもちろんの事ではあるが、人々の心が暗く、明るい夢も希望もなくこれからどうしたらよいか全く予測がつかず暗澹たる状況だったのである。

これは米子や鳥取県だけでなく、日本中が同じような状態だったであろうことは想像に難くない。

そのような時、自分に何が出来るのか料理人としての腕前には自信があったが、その時は料理を楽しむなどという余裕など無かったのは当然である。

そこで思い立ったのが自家焙煎珈琲として始めたナイスコーヒーだったのである。

コーヒーを通してみんながリラックスして、明るさを取り戻してほしい、希望を持ってほしいという願いを込めて始められたのある自家焙煎コーヒーである。

実にナイスなことでないか。

そのことの故か米子の喫茶店数は全国の中で最近まで人口比にして一位であった。多くの人々はその理由は知らなかったが実はこのようは人の思いが込められていたのである。
今日はここらで終わりとしよう。

ブラザーズ・珈琲物10

  ブラザーズ珈琲物語10

初めての挫折2
従業員が運転する貨物ワゴン車の後部座席に乗せられて、近くの整形外科病院を尋ねたが、その日は休業日だった。兎に角、近くの総合病院に行ってみようという事で米子では良く知られている博愛病院まで行った。途中、車が小さなデポボコにあたると息が詰まるような痛みが走った。初診の窓口を尋ね事情を相談したら、予約がないと受け付けないというではないか。これは救急治療を要する状態であるのに何という事を言うのだと、思い耳を疑ってしまったが、息も絶え絶えの怪我人が受付まで歩いて行ったのが、不味かったのかなと後で想い返した。

如何すべきか悩んだ挙句、救急車を病院まで呼ぶことにした。暫くして、救急車に乗せられて病院を出発した。その車中で、名前、生年月日、住所、など聞かれたがこんなに苦しんでいるのに何故問診のような事をするのか?と、腹が立ってきたが、意識や精神状態を確認していたのだろうと思うようになった。車中では消防署の救急隊員がサイレンを鳴らして病院を出たのは初めてだという会話をしていたことを思い出した。30分もすると米子市内の国立医療センターに入院することになった。古い病院ではあったが、米子市内では有数の病院である。早速、レントゲン撮影、CT検査をすませた。結論は腰椎1番の圧迫骨折であった。その映像を見たが地中の活断層がズレている様な微小なヒビが入っていた。たったこれだけのヒビで、こんなにも激痛が走るのかと感じたものである。

入院部屋は、4人部屋だいたい70代後半のお爺さんばかりである。62歳の私はそこでは最年少の若造である。みんな、腰、膝、肩を痛めて入院しているが内科系と頭はしっかりしていた。だから元気は甚だ良い。一日中しゃべっている。私は話す内容もないし、兎に角痛くて話すどころではない。
家族、親族はかなり心配した。家内はもはや、一生車椅子生活を覚悟したようだ。初めの一週間は石膏のギブスで胴体を固めて安静が必要であった。

何にもできない日が数日続き全身が痒くなってきた。もう我慢できなくなって看護婦さんに掻いてくださいと頼んでも、我慢、我慢というだけである。2週間目に入るともうとても我慢できない痒みの故、看護婦さんに孫の手はないかと懇願したら分かったと言って物差し定規を持て来て、先生に言うたらアカンと口止めされた。

もう何でもよい、何とかとハサミは使いようというが、物差しも使いようだ。2週間ほどはギブスの儘であったが困った事というのは、痒みだけではなかった。トイレである、小は立った儘何とか成るが、大はどうするんだ? 兎に角便器に座れない、介護状態で何とか座っても今度は自分で拭けない。当然ながら誰かに拭いて貰うしかない。こんなに恥ずかしく情けない事はなかった。きっと介護施設などに入っている方々はこんな気持ちだろうなぁと思われた。そして、暫くすると、ギブスが取れて、コルセットになった。

取れてかなり身軽になれて気持ちが楽になった。痛みもなくなったが、無理は厳禁だったのでやはり一日中ベッドの上で安静が必要だった。此処が私の性分でチョット良くなるとじっとしておれない、iパッドをいじりたくなってきた。これ一台あるだけでベッドの上で、大体の用事は済ます事が出来た。時には、今でいうテレワークである。ベッドの上が社長室である。わずか数人の社員たちと動画で会議をする事が出来た。

まるで、宇宙ステーションから地上と会話をしている雰囲気であった。今はテレワーク会議は週に数回はあり特別困難でもなくストレスはないが、今から8年前は慣れるまで時間がかかった。ある時は一日中アイ.パッドを操作して肩が凝り、頭が痛くなって医者に相談したらあまり遅くまでアイ.パッドをいじらない様に注意された。誰かがチクッたなぁと思ったが医者の言うとおりである。このように少し良くなると頭も、手足も少しずつ軽くなってきたが矢張り、ベッドに寝た切りであった。相変わらず、アイパッドからオシメパッドまでお世話になっていた。

アイパッドの使い過ぎである時は、余りにも頭が痛いので相談すると座薬を入れるように指示された。若い白衣の天使の看護婦さんの白魚のような指で座薬を入れてくれるのだ。ところが緊張しているのか座薬が入らない、一生懸命入れようとするが入らない。力を抜いてください、力を抜いてくださいと言ってくれるが入らない、力を抜いたら、屁が出るではないかとも言えないし、、、我慢するしかなかったが。今では笑い話でしかないがその時は真剣だった。

そんなことがあって、やっと1ヶ月が過ぎて退院できた。完全に快復するまでには1年位かかったが、忘れられない記憶であった。
今夜も眠くなったよ。お休みzuzu

ブラザーズ珈琲物語9

ブラザーズ珈琲物語令和454
初めての挫折

ブラザーズ珈琲は店舗の屋号で社名は有限会社プロテア・ジャパンといい、コーヒー部門だけではなく本々は静岡県川根のお茶、そして健康自然食品など小売り、健康管理に必要な活性水素水製造器の代理店そして、太陽光発電の販売設置代理店等を基本事業としてきたのである。その頃は、総勢20名くらいにはなっていた。

しかし、J君の退社に続き、それぞれが結婚したり家庭や健康状態の都合で退社していき、かなり人数が少なくなっていた。ある日皆は外回りの営業に出かけ私一人がブラザーズ珈琲の店舗に残っていた。お客さんも来る気配がないので、この際コーヒー製造工程を合理化しょうと考えて新しい試みをしてみることにした。これまでコーヒーの生豆を活性水素水での洗浄時手洗いで行っていた。

これにはそれなりの理由があった。先ず活性水素水で洗浄すると、水の粒子が普通の水道水比べてかなり小さいのでコーヒー生豆一粒一粒の奥深く浸透する事が出来、農園での農薬、そして輸入時の消毒などを豆の外部に取り出す事が出来るのである。これが初めにも書いた通りコーヒーを飲むと私の腹痛を起こしていた原因であった。故にこの作業工程だけは手抜きは出来なかった。

しかし、人手が足りない、況してや山陰の冬の水は冷たい。婦人たちの作業には厳しい条件であった。これを何とかしようと思い全自動洗濯機でやろうと思いついた。洗濯機は中古品があったのでこれを使うことにした。勿論野外で使うのでAC100V電源をどこでとるかが課題であった。外壁にコンセントはあるにはあったが、通電していなかった。思案した挙句、室内のコンセントからケーブルを引くことにした。

ところが今度はどのような経路でケーブルを引くかが問題となった。そこで、いろいろ試行錯誤した結果一つの換気扇を止めて、換気扇の吹き出し口からケーブルを取り出し電気を取り出すことにした。何でも必死になって頭を使えば思いつくものだと一人喜びながら作業をしたものだった。室内からケーブルを換気扇の吹き出し口を通過させて外部に取り出す。

外部に回り少し出たケーブルを引っ張り出す作業をしなければならないが、換気扇は壁の最上部に取り付けてあるので、脚立を使ってケーブルを引っ張る必要があった。私は本来左利きだったので右手で脚立の足を持ち、左手でケーブルを引き出そうとしたが、少し力が弱かったのかケーブルは動かなかった。だいぶ腕力が弱って来たかなと思い今度は両手でケーブルを引っ張った。っとその時、両手で思いっきり引っ張ったのでケーブルは出てきたのだが、力が余って、両手は完全に脚立から離れているので完全に空中に吹っ飛んでしまった。

その時間が私には結構長く感じられたが、実際には瞬間的だったはずである。背中からコンクリートの上に叩き付けられ、その瞬間何とも言えない痛みが背骨に走った。私は人生60年間これまでこのような痛みを感じた事はなかった。痛みというより、兎に角、呼吸困難に陥りそして全身脂汗が噴出した。その瞬間、一体何が起きたのか見当もつかなかった。その日は2013131日寒い日であった、此処で仰向けになっていたら大変なことに成ってしまうと思い何とかうつ伏せになろうと試みたゆっくりゆっくりと体を回し時間をかけてうつ伏せになれた。

その時やっと一人の従業員が戻ってきた。大丈夫ですかぁー。見りゃ分かるだろぉと思っても兎に角声が出ない。何とか抱えてもらい部屋まで入る事が出来た。が、何時もはなかなか来ないお客様が3人も一度に来て、コーヒーを飲みたいだの、ジェラードが良いとか、コーヒーの粉が欲しいとか言ってくる。いつもは本当に来店客が少なく悲鳴を上げる状態だったのに何なんだぁぁとお客様が恨めしくなった。従業員に手伝ってくれと言っても、その人は太陽光発電のコンピューター管理しかできなかった。

そうかぁ、それはそうだなと思い返し、社長自ら満身創痍の状態で接客を責任持つことを覚悟した瞬間だった。お客様に心配させてはいけないと思い、ゆっくりと歩きながら、テーブルやカウンターを伝ってコーヒードリップの定位置に辿り着いた。ゆっくり、ゆっくり落ち着いてドリップを済ませ、カップに注いで、テーブルまで運んでお客様に提供する事が出来た。次はジェラードだ、通常は食べやすいように2秒間ほど電子レンジで解凍して提供するのだが今はそんな悠長なことは出来ない。少し硬めですけどぉ、と言って皿の上に置いて提供出来た。

後はコーヒー豆を粉にする作業が待っている。それでも、そろり、そろり豆を計り、粉にして、袋詰めして熱圧着してお持ち帰り袋に入れて渡す事が出来た。そして来客の三人からしっかりと銭を受け取ってから病院まで車で送ってもらった。この車が貨物のワゴン車だったので、腰に響いて来て息が詰まってきた。

苦しくなってきたよ、もう寝るよ。午前1

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ブラザーズ珈琲物語8

ブラザーズ珈琲物語8

少年J君の記憶3
それから23ヶ月は順調に通ってきていた。ところがある時から再び遅刻が目立ってきた。勿論昨晩友達とパーティでチョット騒ぎすぎたという理由はあったが、それは若いから仕方ないなぁといって大目に見ていた。でも、ある時から何だか不自然な遅刻の理由が目に付き始めた。それは、通勤途中の電車の中からの報告であった。始めは何時ものことだろうと思い気にも留めなかったが、余りにも繰り返すので問い糺すことにした。

すると、遅刻の理由が分かってきた。そもそも、学校を休むようになった理由に繋がっていたのである。つまり、学校では気の優しいJ君は不良グループにいつも絡まれて嫌気がさしていたのだった。更に不登校になると電話で何だかんだと絡み脅してくるので電話番号を替えてしまったのだ。そうすると不良グループたちは更にエスカレートして、J君の乗車する駅で待ち伏せして、車中で嫌がらせして、殴る小突く、たばこ吸引を強要する。

時間を遅らせてもしつこく待ち伏せしていたそうである。それでJ君は遅刻したり、欠勤したり不安定な勤務になっていたのだった。そうこうしている内に、とうとう来なくなってしまった。しまった、元の木阿弥かという不安が頭を過っていたころ、J君のお母さんから電話が入った。J君が不良グループに呼び出されている店の近くのコンビニの駐車場らしい。両親とも不安と怖さでガタガタ震えている。わたしは直ぐに店の者に助けに行くように指示した。

するとJ君を丁寧に指導し、いつも楽しく温かく見守ってくれていた女性従業員のS子がJ君救出行動に志願したが、これではあまりに頼りない、確か歳は30ぐらいなのだが、まだ娘っ子の可愛い女の子であった。こんなのが助けに行っても効果はないことは明らかであった。もっと気合のある男は居らんのかぁと言ってもいるのは私より2つか3つ上の先輩従業員だけである。仕方ない、年寄りでも娘っ子よりましだと思い、言って来てくれと頼んだ。

その老人はバット持って行くという、えらく気合が入ったもんだとも思ったが何でも良い行ってくれと頼んだ。本来なら社長の私がJ君を助けに行くべき事は重々分かっていたが、もし万が一不良高校生と会社の代表取締役が取っ組み合いになり怪我でもさせたら社会的にも教育現場でも地域社会でも不味いことになるかもしれないと思い、私が出向くことは控えておいた。

兎に角二人と、J君の両親が指定されたコンビニの駐車場に出向いて行った。・・・・・。しばらく待っても何の報告もない。何となく不安な気持ちに成ってきた。大丈夫だったろうか?何が起きたんだろうか?それから2時間くらいしてから従業員2人は戻ってきた。呼び出された指定の場所には誰も来なかったという。J君もご両親も一安心であった。

それからのJ君はまるで人が変わったように明るく元気で積極的になってきた。
半年もすると私は何も干渉しなくても安心だった。店のすべての業務即ち、コーヒー豆の洗浄、天日干し、ハンドピック、焙煎、ドリップ、接客、レジ係1年チョットでこんなにも変化するのか?と驚いたものだった。これが若さというものかと実感した。

しかし、素晴らしいと喜んでばかりは居れなかった。J君に此処でずっと仕事をさせてはいけないという思いになっていった。若い時の苦労は買ってでもせよというが、苦労の前に学問が必要だと思った。やはり、現代社会で中卒は厳しいぞ、況してや男子、高卒ぐらいは必要だと思って、通信教育や定時制高校、インターネット高校など調査してみた。

そして一番J君に相応しいと思えるNHK学園の資料を集めてJ君に話してみた。高校に行ってみないか。学問は必要だよ。歳をとってからでも良いが、出来れば若いうちが楽だよと言ったことを今も覚えている。

ところが、J君の返事は耳を疑うような返事だった。僕は大学に行きます。ええっっ何ィィ。びっくりしたのはこちらだけで、本人はニコニコしている。どうしたんだぁ。というと、高卒認定試験、昔の大検であるが、これを受けて大学に行くというのである。まぁ何という事だ、若いという事はすばらしい。じゃぁ、早めに仕事を切り上げて勉強するか、ハイ、そうしたいです。元気に明るく、きっぱりと言ったものである。

定時の午後6時までの勤務は酷な話である。4時までにしよう。しかし、まだ勉強時間が足らないという。じゃぁ3時までに切り上げた。暫くしてまだ足らないという。それはそうである、3年間通学し受験準備した者と3ヶ月自習したものが競争出来る訳はなかった。分かった、もう仕事はやめて受験勉強に専念しよう。ハイっ、ありがとうございます。もう嘗ての暗く捻くれて、体も捩れていたJ君を想像することは出来なかった。

一浪はしたが、2年目には確実に東京の明星大学に合格した。今では東京の中堅のIT会社に就職して、そこでも鳥取県出身の社長から見込まれて将来を嘱望されていると聞いている。そして、いつもJ君はどうしているかな、ご両親はどうしているかなぁと想い起すのみである。 
                 青年よ大志を抱け、神の元に。

ブラザーズ珈琲物語7

ブラザーズ珈琲物語7

少年J君の記憶2
翌日、J君はブラザーズ珈琲に来た。高校1年というから未だ15歳か16歳だっただろう。色の白い美少年であったが、高校一年生の一学期は通学したが、二学期から行かなくなってしまったそうだ。兎に角、翌日から店に来るように決まった。

翌朝時刻に合わせて、一人で店に来た。何だか不安そうで落ち着かない雰囲気だった。多分、何故自分が来たのか?何故両親は此処に来させたのだろうか?一体此処で何をするのだろうか?きっと不安がいっぱいだったのだろう。まともに目と目を合わせることはなかった。私もその頃はコーヒー事業だけではなく、太陽光発電の販売会社も始めていたので、J君に付きっ切りという訳にはいかなかった。しかし、朝礼だけは必ず守ることにした。

全社員と言っても3人か4人である、一人一人の表情、服装、顔色、健康状態などからその日のコンデションは手に取るように分かった。朝礼と言っても大体5分間、長くて10分間程度であった。当然ながら、親御さんから依頼された者として殆どの関心はJ君のみであった。他の者は3年間も大体同じことを、毎日やっているのだから、何の心配もなかったがJ君だけは何とか1人前になってほしいと願っていた。

ところが、1日目から目を疑うような状況だった。狭い8畳間位の事務室で全員起立し、私の訓示と指示事項を受けるのである。当然みんなは立ったまま、休めの姿勢で聞いている。ところが、J君はまっすぐに立てなかったのだ。足は前後、方は入れ肩、顔は斜めで横目の上目使いでこちらを睨んでいる。おッとー、これは半端ないぞぉーと感じたものだった。

でも、直ぐに、直感的に分かってきたものがあった。素直に心を開く事が出来ない状況ではないだろうか。言いたくても言えないことが心の中に抑圧されているのだろう。しかし、言うべきことは言わないとここに来た甲斐はなくなってしまう。傷付けてはいけない、静かにゆっくりと諭した。起立の姿勢は真っすぐである、話をする、話を聞く時は相手の顔を向いて目と目を合わせて心の交流をする。当たり前のような指示であるが、本人にとっては初めて聞くことのようであった。又、何故このようなことを言うのだろうかと言わんばかりである。

あくる日も、同じ状態であった。腰が曲がり真っすぐ立てないのである。私は不思議に思って個人指導をしたがどうしても真っすぐに立てなかった。真っすぐにすると腰や背中が痛いという。これは困ったことだ事は重症だと感じた。心の状態が体に表れていたのだった。ではどうした良いか。私は教育者でもなければ、心療内科の医者でもない。困ってしまったが、ふとアイデアが浮かんだ。リラックスだ。これは命令や強制、規則では正常化できないと感じた。

それから、細かいことを言うのはやめて、明るく、楽しく、肯定し出来る、出来る、何でもできる。やってやれないことはない。そのようにして約半年が過ぎた。その頃になると、こちらが指示したことは殆ど完璧にこなすことが出来るようになった。しかし、このころだっただろうか。時々遅刻が目立ってきた。遅刻はいかんぞ、出社時刻の30分前を目標に家を出発せよ。と指導したものだったがなかなか治らなかった。せめて、遅刻しそうなときは報告するように指摘した。すると毎日電車の中から遅刻の報告が入った。困ったものだと思いながらも暫く様子見ることにした。 

  もう午前0時だ。そろそろ寝るとするか。  つづく

ブラザーズ・珈琲物語6

ブラザーズ珈琲物語6

少年J君の記憶
コーヒー事業を始めて3年位経ったころだった。妻の知り合いの婦人から相談があった。長男のJ君のことであった。高校1年の一学期までは通ったが、二学期になると全く通学しなくなった。親御さんとしては心配でどうしようもないといった表情だった。学校や様々な相談所に相談しても現状は変わらない、最後は宗教にすがっても治る様子もなかった。それで、私に何とかしてほしい、お店で使ってほしいという相談であった。

学校や福祉相談、況してや宗教に相談しても解決できないことを何で私に相談するんだと心の中で思ってしまった。給料は要らない兎に角昼間、松永のもとでいるだけで安心だというのである。しかし、私とて、決して子育てに成功しているとは言い難いし自信もなかった。況してや、コーヒー事業がうまく行っているとはお世辞にも言えない状況であった。

私の性格上このような相談には弱いというかすぐ同情してしまう性質である。出来もしないのにすぐ引き受けてしまい、後で自他ともに後悔してしまうことが多いのであった。故にこれは無責任に安請け合いは禁物だと思いキッパリと断った。。。 ところが、いつもはおおらかで、明るくパワフルはその婦人が、急に困り果て泣き出しそうな顔になった。困ったなぁ~~と思い横にいる家内の顔を見た。

多分、始めたばかりの商売がうまく経営が出来ていれば良いが、青息吐息のやり繰り状態の店で何が出来る。ハッキリと断れと言うだろうと直感的に思ったのである。ところが、家内はニコニコとしながら、そりゃぁ何とかせんといかんねぇーと言ったのである。家内も子育てには苦労して、況してやダウン症の障害者である長男をケアーしながら店を切り盛りしているので、これは無理だと言うに決まっていると思ったのである。ところが、快く引き受けることになったのである。ここでまた私のまだ知らない妻の一面を見たものであった。

ブラザーズ・コーヒー物語5

ブラザーズ珈琲物語5

年末仕事納めの思い出
平成201228日兄弟二人で仕事納めの大掃除もして、そろそろ帰ろうとしてカーテンも下ろしている時、入り口の自動ドアをたたく音がした。何だろうと思ってカーテンを開けると一人の婦人というか、おばぁちゃんが何か大変ご立腹のようで目を三角形にして何か文句を言っている。何せ山陰米子の地元である何を言っておられるかサッパリ分からない。そうするとそのおばぁちゃんは、ますます怒って怒鳴る。落ち着いてゆっくりお話しくださいと、たしなめると少しずつ言葉が分かってきた。

お前たちは逃げるつもりか。お前たちは騙した。詐欺だ。何を藪から棒に言っているんだ。いくらおばぁちゃんでも我慢にも程があるぞという感情が湧いてきたが、まぁ此処で口論になっては元の木阿弥であるのでよく聞いてみた。おばぁちゃん曰く、この店でコーヒーを飲んだ時は大変美味しかったのでブレンド200gを買って帰った。しかし、家で飲んでみると不味かったと言うのである。お前たちは飲んだコーヒーと販売したコーヒーを入れ替えただろう、と言うのである。

笑い話のような話だが、笑ったら相手は益々怒るだろうからにっこりとして言った。おばぁちゃんのそのコーヒーは何処にありますかと。すると、ここにある持ってきた、金は要らんから返すというのである。困ったおばぁちゃんだなとも思ったが、じゃぁ此処で3人でそのコーヒーを飲んでみましょうという事になった。

そのコーヒーをこちらが入れている時も、我らを睨みつけて許さんという声が聞こえてきそうである。しっかり、ゆっくりドリップを済ませ、ハイどうぞと温かいコーヒーを差し出し三人で飲んだ。暫くして、おばぁちゃんどうですかと尋ねると、直ぐに、ゆっくりと、小さな声で返事が返ってきた。うまぁぁい。それ見たことかと心の中で思ったが、大丈夫でしょと言ったら、急に安心されたようで笑顔に変わった。ついでにもう一袋買って帰られた。

してやったりと思ったが、いったい何が原因であったろうか、翌々兄弟や家内たちとも検討した結果、原因は水だという結論に達した。ブラザーズ珈琲では活性水素水で、洗浄してから乾燥焙煎している。そしてコーヒーをミル機に掛けて(粉にする)その後活性水素水でドリップして飲んでいる。その違いは活性水素水と一般の水道水の違いだったのだ。活性水素水はその水だけでも健康に大変優れているが、コーヒーの粉の粒子に入り込み、旨みを抽出するのである。その後何も言ってこられないのでわが社の活性水素水の浄水器を購入されたのかなと思っている、

というのはあのおばぁさんは、以前からの顧客だったようである。ここで得た教訓、ピンチはチャンス、とはこのことだぁ。苦情は営業だぁ。 感謝

私がコーヒー事業を始めた理由

私が珈琲事業を始めた理由 私は(有)プロテアジャパンの代表取締役兼、ブラザーズ・コーヒーの店長の松永末男と申します。 会社の所在は鳥取県米子市、住居もその近所ですが、生まれは熊本県菊池郡西合志町(現合志市)です。 約37年前、家内との縁で東京から米子に移り住み7~8年して家内の両親と同居するようになりました。 親の老後を看てほしいという依頼の元、少しでも親孝行の真似事だけでもしたいという思いでした。 しかし、「親孝行したい時に親は無し」とはよく言ったもので、十年前に両親とも2年も経たないうちに他界してしまいました。 血の繋がりの無い親とは言え急に姿が見えなくなると寂しいもものでした。 そんな時、縁ある会社の招待でハワイ旅行に行く機会がありました。 少しリラックスしたいなぁという軽い気持ちで参加しましたが、ハワイには四十年来の友人が住んでいることが分かりオアフ島からハワイ島まで日帰りオプションツアーを組みました。 ハワイ島では日本人移住者の苦労の痕跡があちこちに残っていましたが、目につくものは、日本の大手珈琲会社が経営するコーヒー農園や奇麗にガーデニングされた観光地でした。 私の友人もコーヒー農園を経営していましたが、観光客が来るような場所ではありませんでした。 何だか冴えないコーヒー農園なのだろうなと思い訪ねてみると、現実は意外なものでした。 その理由は、本当の高品質のコーヒーは観光客が訪れるような場所には栽培できないというものでした。 観光バスが入れる場所は標高もあまり高くない広々とした農園と隣接した見晴らしの良い場所でしたが、友人の農園はバスで乗り入れすることは先ず不可能で、四輪駆動車にしがみついてやっと辿り着けるような高地でした。 寒暖の差が激しく昼までは暑い日差しが降り注いでいたかと思っていると、午後には濃い霧が覆い半袖では寒いくらいでした。 冗談のような話ですが、本当に体験したことです。 更に詳しく言いますとハワイと言えば、ワイキキビーチでの海水浴、サーフィン、フィッシング等常夏の国というイメージがありますが、ハワイではスキー、スノボーも出来るのです。 四千メートル級の山でウインタースポーツをして、下山してサーフィンなんてことも一日の内に出来るのです。 このように高低差があることが、気温の寒暖の差を生みコーヒー栽培に最も適した自然環境になっているのです。 勿論日本でもぶどう、柿、桃など果物は寒暖の差があると甘みが増し美味しくなることは知られていますが、ハワイ島のような自然環境は何処にもありません。 友人は、そのようなコーヒー栽培に適した自然環境の中で農園を持っていました。 このコーヒーはハワイコナ珈琲の中でも最高級のエクストラファンシー(EXF)でした。 これはアメリカ大統領がホワイトハウスにて閣僚たちと朝一番に飲む珈琲だと言われています。 分かれ間際に、一言「この珈琲が日本を豊かにする為に、ひいては世界の人々の為になれば良いなぁ」と言っていました。思えば十年前の事でした。 この出会いがと体験がコーヒー事業を始めたきっかけになりました。

ブラザーズ珈琲物語4

4,ブラザーズ珈琲の夢 今から思えばブラザーズ珈琲は商売や事業とは程遠い思いから出発した。先ずはコーヒーに対する知識も無く、経験もなく、資金もなく人材もない状態から出発した。有ったのは還暦前の年寄りが、少年のようなでっかい夢だけを持って始めたのである。その夢とは、献上コーヒーの匠の技を残したい、継承したいというものだけではなかった。何故ならば私たち二人には共通する思いがあった。それは若い20歳代に世界中の人々と交流したことであった。私たち二人はずっと一緒に生活して来たわけではなかった。 途中二人はそれぞれの道を歩んだ。二つ年上の兄は事業の経営者として数千人の会社を次々と経営し成功させた。若いころの私には雲の上の人だった。況してや共に仕事をしたこともなかった。私はといえばいつも現場であった。販売、営業、ボランテア活動、管理部門作業員、運転手苦しい20代、30代であった。所謂、労働者であった。そして出会うことのなかった二人が60歳を目前にして不思議と出会い、意気投合したのも不思議なことである。これだけ人生路程が違えば、考え方、思想、価値観など異なることが殆どであろう。 ところが、我らは二十歳そこそこの時と少しも変わっていなかった。その純粋さ、明るさ、そして思いやり、40年近い時間がタイムスリップしたかのようであった。二人の義兄弟の志は、ただ単に献上コーヒーを成功させ金儲けしようという動機だけではなかった。二人は相分かれて全く違う人生を歩んだが、結論は非常に近いものであった。それは即ち、その間二人は全く別の世界で世界中の人々と出会いを体験している。そこで体験したものはこのブラザーズ珈琲経営方針の基になっている。 即ち世界の人々の貧富の差、つまり南北問題である。我々が親から聞いてきた戦時中よりはるかに厳しい生活をこの21世紀になっても強いられている人々がいることを知ったからである。ブラジルでは空き地に草をくみ上げて作った小屋で家族が暮らしていた。しかし、6ヶ月するとギャングのような連中に機関銃で射撃され逃げ惑う放浪者。フィリピンでは人々が行き交う道端の軒下で産まれ落ち育てられた少女がいた。これは童話でもなく、フィクションでもな現実であった。世界には最もっと悲惨なことはあるだろう。 これを何とかしたいという衝撃的な思いがこのブラザーズ珈琲立ち上げの動機になっている。幸いにも二人の友人知人は東南アジア、アフリカ、中南米などにいることが分かった。コーヒーの生産地とほぼ重なっていた。それならば、ピンチはチャンスとはこのことだ。この献上コーヒーの技術を開発途上国の知り合い達に伝えて生産農家など苦労している人々に美味しい日本の献上コーヒーを飲んでほしい。そして、どれだけ出来るか分からないが、この献上コーヒーで少しでも豊かな暮らしをして欲しい。このような共通する思いがあったことは今でも思い出す。そして今でも変わらない。これがブラザーズ珈琲の夢である。今日は少し熱くなりました、ここら辺で終わりといたしましょう。

ブラザーズ珈琲物語3

3,泥縄開店悲喜交々 順序が前後するが、ブラザーズ珈琲店をオープンするまで実にいろいろあった。こんなことを言えば当然のことだと普通の人は思うだろう。しかし、こと、ブラザーズ珈琲は普通ではなかった。何せ、何もない所から始まったのだった。技術もない、経験もない、資金もない、人材もない。身内から非難は半端なかった。また、外部の卸商社、同業者、あざ笑い、にやけ笑いなど、いくら楽天的な者でも分からないはずはなかった。コーヒー生豆を焙煎する前にハンドピックしていると卸商社の支店長が訪ねてきた。そんな方法で手間をかけて採算が合うんですかねぇ。無礼者これは献上品であるぞ、と言いたいのだけれど、耐えるしかなかった。もう来るなと言って取引を切った。 又は新しく開店するといろんな人々が来店する。黙って座って店の中をジロジロ見渡してコーヒー一杯だけ飲んで帰る者。又は店内の写真を黙って撮って帰る者。又は一杯のコーヒーをじっくりと見つめ、一口飲んでは3分待ち又一口、そしてまた3分経ってまた一口。今度はミルクを入れて又一口と飲んで黙って帰っていく。コーヒー好きな人間って無口で気難しそうだなと思ったものである。でも、接客しないで楽な商売だとも思った。実はこれがバカの素人だ。これらは殆ど同業者又はその使いのものであったことが最近になって分かった。 その当時師匠から時々苦言があった。お前のところのコーヒーの悪口を言われると堪らんぞ。師匠は何でそんなことを言うのかなぁという程度の思いしかなかったが、今から思えば、みんな探りに来ていたスパイだった。結局は私ではなく、師匠がバカにされ、笑われていたのだった。こんなに恥ずかしく情けないことはなかった。何が何でも早く一人前になり師匠はじめ、家族や仲間たちに安心してもらいたかった。いつも我々が閉店前になると師匠の石門さんが訪ねてきて厨房に入り手取り足取り教えてくれた。その気持ちは痛いほどわかった。 ある時私は頭が痛くなって近くの大学病院に診察に行った。原因は無呼吸症候群で、睡眠が悪く脳が酸欠になっているといわれた。完全にストレスからくる睡眠不足で過労状態であった。故に宿泊での呼吸診察があった。一夜明けて退院手続きを済ませ帰ろうとして野外の渡り廊下を駐車場に向かっていると、途中でバッタリ石門さんに会ったのだ。なんで病院なんかに来ているんだとお互いに思ったのだ。何せ二人は健康でで病気とは縁のない体だったからである。 私は私の事情を話すと、あまり無理するな体が資本だと言ってくださった。で、師匠は何で病院なんかにいるのかと聞くとのどの奥に癌が発見されたのだ。それから千葉の方に優秀な癌の先生がいるという事で転院されたと聞いてかなり良くなったと風の便りで聞いてはいたが、大学病院の渡り廊下で立ちながら、最後は柱にすがりながらズルズルと座りながら話し込んだ時が最後の出会いだった。 それから2年もしないうちに葬儀の案内が来た。もっと自家焙煎の方法を学び師匠に喜んでもらいたかったものである。後悔先に立たずである。中々うまくいかず、憂鬱な時が過ぎていったが、良いこともあったのだ。最も反対していた家内が新品の1キロ焙煎機を買うことに賛成してくれた。そして生産量が足りなくなると今度は4キロ釜も購入し生産量は倍増した。中古というより卸業者リサイクル業者から仕入れて整備し中古品として売り出しいたのだった。わしたち夫婦は広島にあるセイコーコーヒーを尋ね現物を見て現金で買った。これが即ち焙煎師仲間では有名でありこれを持ち、使いこなしが極めて困難なことで有名で自慢の幻のぶた釜と言われる曰く付きの焙煎機であった。 そんなこととは露知らず、ホイホイと買ってしまったが、後が大変だった。何せ、図面もなければ、マニュアルもない、その上交換部品も無かった。製造会社は廃業していたのだった。壊れたらおしまいであった。故にいつも緊張して操作、整備にあたっている。始めて十年したころやっと満足出来るようになった。これだったら石門師匠にも胸を張って飲んでもらえると自信がわいてきたものである。 しかし、常に安心、慢心は禁物である。コーヒー焙煎は機械工学、電気工学、流体工学、熱力学、栄養学、調理学あらゆる知識と技術技能が必要である。多寡がコーヒー、されどコーヒーである。しかし私にはずぶの素人でも必ずできるという、やってやれない事はないという、根拠のない自信確信があった。工業高校機械科を卒業し、三菱電機IC製造技術を担当したものからすると、これらのすべての技術、技能、知識は準備していたのだった。私が自家焙煎コーヒー、そして喫茶店を経営していると聞けば親せきや、同級生は何でだろうと疑問に思うだろうきっと。しかし私にはわかる小さなコーヒー豆の中には宇宙がありあらゆる現代技術が込められている。実に神秘的な世界である。 今日はここら辺りでで休みましょう。

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