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私がコーヒー事業を始めた理由

私が珈琲事業を始めた理由 私は(有)プロテアジャパンの代表取締役兼、ブラザーズ・コーヒーの店長の松永末男と申します。 会社の所在は鳥取県米子市、住居もその近所ですが、生まれは熊本県菊池郡西合志町(現合志市)です。 約37年前、家内との縁で東京から米子に移り住み7~8年して家内の両親と同居するようになりました。 親の老後を看てほしいという依頼の元、少しでも親孝行の真似事だけでもしたいという思いでした。 しかし、「親孝行したい時に親は無し」とはよく言ったもので、十年前に両親とも2年も経たないうちに他界してしまいました。 血の繋がりの無い親とは言え急に姿が見えなくなると寂しいもものでした。 そんな時、縁ある会社の招待でハワイ旅行に行く機会がありました。 少しリラックスしたいなぁという軽い気持ちで参加しましたが、ハワイには四十年来の友人が住んでいることが分かりオアフ島からハワイ島まで日帰りオプションツアーを組みました。 ハワイ島では日本人移住者の苦労の痕跡があちこちに残っていましたが、目につくものは、日本の大手珈琲会社が経営するコーヒー農園や奇麗にガーデニングされた観光地でした。 私の友人もコーヒー農園を経営していましたが、観光客が来るような場所ではありませんでした。 何だか冴えないコーヒー農園なのだろうなと思い訪ねてみると、現実は意外なものでした。 その理由は、本当の高品質のコーヒーは観光客が訪れるような場所には栽培できないというものでした。 観光バスが入れる場所は標高もあまり高くない広々とした農園と隣接した見晴らしの良い場所でしたが、友人の農園はバスで乗り入れすることは先ず不可能で、四輪駆動車にしがみついてやっと辿り着けるような高地でした。 寒暖の差が激しく昼までは暑い日差しが降り注いでいたかと思っていると、午後には濃い霧が覆い半袖では寒いくらいでした。 冗談のような話ですが、本当に体験したことです。 更に詳しく言いますとハワイと言えば、ワイキキビーチでの海水浴、サーフィン、フィッシング等常夏の国というイメージがありますが、ハワイではスキー、スノボーも出来るのです。 四千メートル級の山でウインタースポーツをして、下山してサーフィンなんてことも一日の内に出来るのです。 このように高低差があることが、気温の寒暖の差を生みコーヒー栽培に最も適した自然環境になっているのです。 勿論日本でもぶどう、柿、桃など果物は寒暖の差があると甘みが増し美味しくなることは知られていますが、ハワイ島のような自然環境は何処にもありません。 友人は、そのようなコーヒー栽培に適した自然環境の中で農園を持っていました。 このコーヒーはハワイコナ珈琲の中でも最高級のエクストラファンシー(EXF)でした。 これはアメリカ大統領がホワイトハウスにて閣僚たちと朝一番に飲む珈琲だと言われています。 分かれ間際に、一言「この珈琲が日本を豊かにする為に、ひいては世界の人々の為になれば良いなぁ」と言っていました。思えば十年前の事でした。 この出会いがと体験がコーヒー事業を始めたきっかけになりました。

ブラザーズ珈琲物語4

4,ブラザーズ珈琲の夢 今から思えばブラザーズ珈琲は商売や事業とは程遠い思いから出発した。先ずはコーヒーに対する知識も無く、経験もなく、資金もなく人材もない状態から出発した。有ったのは還暦前の年寄りが、少年のようなでっかい夢だけを持って始めたのである。その夢とは、献上コーヒーの匠の技を残したい、継承したいというものだけではなかった。何故ならば私たち二人には共通する思いがあった。それは若い20歳代に世界中の人々と交流したことであった。私たち二人はずっと一緒に生活して来たわけではなかった。 途中二人はそれぞれの道を歩んだ。二つ年上の兄は事業の経営者として数千人の会社を次々と経営し成功させた。若いころの私には雲の上の人だった。況してや共に仕事をしたこともなかった。私はといえばいつも現場であった。販売、営業、ボランテア活動、管理部門作業員、運転手苦しい20代、30代であった。所謂、労働者であった。そして出会うことのなかった二人が60歳を目前にして不思議と出会い、意気投合したのも不思議なことである。これだけ人生路程が違えば、考え方、思想、価値観など異なることが殆どであろう。 ところが、我らは二十歳そこそこの時と少しも変わっていなかった。その純粋さ、明るさ、そして思いやり、40年近い時間がタイムスリップしたかのようであった。二人の義兄弟の志は、ただ単に献上コーヒーを成功させ金儲けしようという動機だけではなかった。二人は相分かれて全く違う人生を歩んだが、結論は非常に近いものであった。それは即ち、その間二人は全く別の世界で世界中の人々と出会いを体験している。そこで体験したものはこのブラザーズ珈琲経営方針の基になっている。 即ち世界の人々の貧富の差、つまり南北問題である。我々が親から聞いてきた戦時中よりはるかに厳しい生活をこの21世紀になっても強いられている人々がいることを知ったからである。ブラジルでは空き地に草をくみ上げて作った小屋で家族が暮らしていた。しかし、6ヶ月するとギャングのような連中に機関銃で射撃され逃げ惑う放浪者。フィリピンでは人々が行き交う道端の軒下で産まれ落ち育てられた少女がいた。これは童話でもなく、フィクションでもな現実であった。世界には最もっと悲惨なことはあるだろう。 これを何とかしたいという衝撃的な思いがこのブラザーズ珈琲立ち上げの動機になっている。幸いにも二人の友人知人は東南アジア、アフリカ、中南米などにいることが分かった。コーヒーの生産地とほぼ重なっていた。それならば、ピンチはチャンスとはこのことだ。この献上コーヒーの技術を開発途上国の知り合い達に伝えて生産農家など苦労している人々に美味しい日本の献上コーヒーを飲んでほしい。そして、どれだけ出来るか分からないが、この献上コーヒーで少しでも豊かな暮らしをして欲しい。このような共通する思いがあったことは今でも思い出す。そして今でも変わらない。これがブラザーズ珈琲の夢である。今日は少し熱くなりました、ここら辺で終わりといたしましょう。

ブラザーズ珈琲物語3

3,泥縄開店悲喜交々 順序が前後するが、ブラザーズ珈琲店をオープンするまで実にいろいろあった。こんなことを言えば当然のことだと普通の人は思うだろう。しかし、こと、ブラザーズ珈琲は普通ではなかった。何せ、何もない所から始まったのだった。技術もない、経験もない、資金もない、人材もない。身内から非難は半端なかった。また、外部の卸商社、同業者、あざ笑い、にやけ笑いなど、いくら楽天的な者でも分からないはずはなかった。コーヒー生豆を焙煎する前にハンドピックしていると卸商社の支店長が訪ねてきた。そんな方法で手間をかけて採算が合うんですかねぇ。無礼者これは献上品であるぞ、と言いたいのだけれど、耐えるしかなかった。もう来るなと言って取引を切った。 又は新しく開店するといろんな人々が来店する。黙って座って店の中をジロジロ見渡してコーヒー一杯だけ飲んで帰る者。又は店内の写真を黙って撮って帰る者。又は一杯のコーヒーをじっくりと見つめ、一口飲んでは3分待ち又一口、そしてまた3分経ってまた一口。今度はミルクを入れて又一口と飲んで黙って帰っていく。コーヒー好きな人間って無口で気難しそうだなと思ったものである。でも、接客しないで楽な商売だとも思った。実はこれがバカの素人だ。これらは殆ど同業者又はその使いのものであったことが最近になって分かった。 その当時師匠から時々苦言があった。お前のところのコーヒーの悪口を言われると堪らんぞ。師匠は何でそんなことを言うのかなぁという程度の思いしかなかったが、今から思えば、みんな探りに来ていたスパイだった。結局は私ではなく、師匠がバカにされ、笑われていたのだった。こんなに恥ずかしく情けないことはなかった。何が何でも早く一人前になり師匠はじめ、家族や仲間たちに安心してもらいたかった。いつも我々が閉店前になると師匠の石門さんが訪ねてきて厨房に入り手取り足取り教えてくれた。その気持ちは痛いほどわかった。 ある時私は頭が痛くなって近くの大学病院に診察に行った。原因は無呼吸症候群で、睡眠が悪く脳が酸欠になっているといわれた。完全にストレスからくる睡眠不足で過労状態であった。故に宿泊での呼吸診察があった。一夜明けて退院手続きを済ませ帰ろうとして野外の渡り廊下を駐車場に向かっていると、途中でバッタリ石門さんに会ったのだ。なんで病院なんかに来ているんだとお互いに思ったのだ。何せ二人は健康でで病気とは縁のない体だったからである。 私は私の事情を話すと、あまり無理するな体が資本だと言ってくださった。で、師匠は何で病院なんかにいるのかと聞くとのどの奥に癌が発見されたのだ。それから千葉の方に優秀な癌の先生がいるという事で転院されたと聞いてかなり良くなったと風の便りで聞いてはいたが、大学病院の渡り廊下で立ちながら、最後は柱にすがりながらズルズルと座りながら話し込んだ時が最後の出会いだった。 それから2年もしないうちに葬儀の案内が来た。もっと自家焙煎の方法を学び師匠に喜んでもらいたかったものである。後悔先に立たずである。中々うまくいかず、憂鬱な時が過ぎていったが、良いこともあったのだ。最も反対していた家内が新品の1キロ焙煎機を買うことに賛成してくれた。そして生産量が足りなくなると今度は4キロ釜も購入し生産量は倍増した。中古というより卸業者リサイクル業者から仕入れて整備し中古品として売り出しいたのだった。わしたち夫婦は広島にあるセイコーコーヒーを尋ね現物を見て現金で買った。これが即ち焙煎師仲間では有名でありこれを持ち、使いこなしが極めて困難なことで有名で自慢の幻のぶた釜と言われる曰く付きの焙煎機であった。 そんなこととは露知らず、ホイホイと買ってしまったが、後が大変だった。何せ、図面もなければ、マニュアルもない、その上交換部品も無かった。製造会社は廃業していたのだった。壊れたらおしまいであった。故にいつも緊張して操作、整備にあたっている。始めて十年したころやっと満足出来るようになった。これだったら石門師匠にも胸を張って飲んでもらえると自信がわいてきたものである。 しかし、常に安心、慢心は禁物である。コーヒー焙煎は機械工学、電気工学、流体工学、熱力学、栄養学、調理学あらゆる知識と技術技能が必要である。多寡がコーヒー、されどコーヒーである。しかし私にはずぶの素人でも必ずできるという、やってやれない事はないという、根拠のない自信確信があった。工業高校機械科を卒業し、三菱電機IC製造技術を担当したものからすると、これらのすべての技術、技能、知識は準備していたのだった。私が自家焙煎コーヒー、そして喫茶店を経営していると聞けば親せきや、同級生は何でだろうと疑問に思うだろうきっと。しかし私にはわかる小さなコーヒー豆の中には宇宙がありあらゆる現代技術が込められている。実に神秘的な世界である。 今日はここら辺りでで休みましょう。

ブラザーズ珈琲物語2

2、献上珈琲との出会い その頃、37年ほど親しく友人以上の付き合いをしていた先輩がいた。先輩というよそよそしい関係ではなく、正しく兄弟以上の関係であった。二つ歳上で困ったときは何時も相談に乗ってくれた。況してや、初めて上京した時は常に後ろから付いて行き、その人のベルトに指をひっかけて着いて歩いた。所謂、義兄弟のような人に相談したら一緒になって喜んでくれた。 じゃぁ、これから自家焙煎コーヒーをやろうといって盛り上がった。平成20年11月、店名はブラザーズ珈琲に決めた。そして案内してくれた人と共にある朝早く、霜が降りていた寒い日、職人の店を尋ねた。その人は、歳にして七十前後であった。髪は完全に白髪であったが、顔つきや人柄は明るく穏やかな人であったので私たちは安心した。何せ、献上コーヒーの職人と聞いて緊張していたのである。 挨拶も簡単に済ませると直ぐに自家製のコーヒーを出してくれた。そして、その場で感想を言ってくれという。コーヒーの感想など私に言えるはずもない。が、もう既に目の前にはコーヒーが出てきている。ゴチャゴチャと言っている暇は無い。一口飲んでみた。うむっ!これがコーヒーか。これまで経験したことのないものであった。 華やかで、フルーティな紅茶のようであった。勿論、砂糖やミルクなど無関係の味わいである。これまで、コーヒーには砂糖、ミルクは必須品だと思ってきたが、無い方が良いことが分かった。コーヒーの味即ち、苦味、酸味、旨み、香り、コクがバランス良く口の中に広がった。これまで飲んできたコーヒーは砂糖湯だったことが分かった。生まれて初めて経験した飲み物であった。これが、献上珈琲との出会いだった。                                  以上

ブラザーズ珈琲物語1

ブラザーズ珈琲物語1 はじめに ブラザーズ珈琲との出会い 私がコーヒーを始めたのはそんなに昔のことではない。 未だ勤め人をしている時でコーヒーとは全く縁もないし、関心もなかった。 大体コーヒーは体に合わなかった。 営業やサポートで外回りをしている時、だいたい接待にはコーヒーが出る。 出すほうはお茶やジュースよりコーヒーの方が良いと思い出してくる。 それは私にもよく分かっていた。同僚たちは喜んで飲んでいた。 私も美味しいコーヒーを飲みたいとは思っていたが、現実は全く違っていた。 体に合わないのである。コーヒー1杯飲むと十五分以内にトイレに駆け込んだ。 その当時の私には何故そうなのか全く分からなかった。 同僚たちはお客様や出先の業者たちと歓談しながら美味しくコーヒーを飲んでいたが私には耐えがたい時間だった。 勿論、もっと若いときは美味しさは大して分からなかったが、お腹が痛くなることはなかった。 三十代頃からコーヒー発作が起こっていた。 もう最後のころにはコーヒーを見ることさえ苦痛であった。 みんなはなぜこんな飲み物を飲むのか、何故私だけが腹痛が起こるのか? 解決もしないまま、定年前の五十半ばになっていた時、米子では知る人ぞ知る事業家で政界でも結構顔の利くと思われる人が訪ねてきた。 「松永さんは顔が広いから尋ねてきました」という。私はよそ者で、決して顔など広くはないが、確かにボランテアや奉仕活動などやっていたのでそのように思われたのかもしれない。 「コーヒーが出来る人を知りませんか?」 私は性格上知らないなどとは、言わない、言えない質であったが、コーヒーだけは嘘が言えない。 まったくもって知りません、分かりませんというしかなかった。 その後その人は大きな体格がうな垂れて、寂しく帰ろうとした。 私は思わず、あまりに寂しい背中を見て何故そんなに残念がるのかを尋ねた。 その人曰く「自家焙煎コーヒーが出来る人を探している。 そして、そのコーヒーは特別なコーヒーで、昭和天皇皇后両陛下が鳥取県米子市に御行幸の時、献上されていた職人の技を引き継いだコーヒーである」 松永であれば老若男女各界階層知り合いがいるはずだと思ったというのである。 とんでもない思い違いではあるが、わたしがそんなに評価されているのかと分かり、悪い気分ではなかった。 しかし、先に書いた通りであった。何せ珈琲から逃げるようにしてきたこれまでの生活であったから致し方ないことである。 しかし後継者がいないという。 成る程訪ねてこられた方の残念さが理解できた瞬間であった。 そして、その時であった、何の根拠もなく、考えもなく私の口から飛び出した言葉があった。 「私がやります。私に教えてください。」 その人もビックリされたが、後でこの話を家族に報告した時も皆は、驚き、あきれ、罵声、罵倒、非難ごうごうであった。 しかし、不思議だったのは、私は何時もだったら、カァーとなって言い返し、引っ込みがつかないようになるのが常であったが、自分でも不思議なくらい静かに、冷静で穏やかだった。 この話が私に来たことが不思議で天命を感じた瞬間であった。これが、コーヒーとの出会いである。   つづく

店長からのコメント

店長いご夫妻

こんにちは店長の松永です。

最近は本物の珈琲が飲みたいと願う人が増えてきました。
その願いに答えようと各店でオリジナルコーヒーが作られています。
うちのお店にもオリジナルブレンドコーヒーがあります。
コーヒー豆の産地は世界中に散らばっています。
そのため豆には個性があります。
単独の豆のストレートコーヒーは美味しいですが、ブレンドしてもっとおいしコーヒーを飲んでもらいたい、と願うのがコーヒー屋さんの気持ちです。
なんどもなんども思考錯誤しながらでき上がったコーヒーは、飲んでもらいたいコーヒーです。
お客様がこられてオリジナルコーヒーを注文してくださいます。
嬉しくてとくに丁寧にいれたくなったりします。
飲まれる様子をみながら心は喜びでいっぱいになりそうです。
このコーヒー美味しいとお客様の声を聞いた瞬間 こころから喜びがあふれ出てきます。
おもわず私の顔が喜びの笑顔になっています。
コーヒーを通して心が通い合う素晴らしい瞬間を与えてくださったことを感謝しています。

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