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ブラザーズ珈琲3

3.ブラザーズ珈琲物語3

泥縄開店悲喜交々

順序が前後するが、ブラザーズ珈琲店をオープンするまで実にいろいろあった。

こんなことを言えば当然のことだと普通の人は思うだろう。

しかし、こと、ブラザーズ珈琲は普通ではなかった。

何せ、何もない所から始まったのだった。

技術もない、経験もない、資金もない、人材もない。

身内から非難は半端なかった。

また、外部の卸商社、同業者、あざ笑い、にやけ笑いなど、いくら楽天的な者でも分からないはずはなかった。

コーヒー生豆を焙煎する前にハンドピックしていると卸商社の支店長が訪ねてきた。

そんな方法で手間をかけて採算が合うんですかねぇ。

無礼者これは献上品であるぞ、と言いたいのだけれど、耐えるしかなかった。

もう来るなと言って取引を切った。

又は新しく開店するといろんな人々が来店する。

黙って座って店の中をジロジロ見渡してコーヒー一杯だけ飲んで帰る者。

又は店内の写真を黙って撮って帰る者。

又は一杯のコーヒーをじっくりと見つめ、一口飲んでは3分待ち又一口、そしてまた3分経ってまた一口。

今度はミルクを入れて又一口と飲んで黙って帰っていく。

コーヒー好きな人間って無口で気難しそうだなと思ったものである。

でも、接客しないで楽な商売だとも思った。

実はこれがバカの素人だ。

これらは殆ど同業者又はその使いのものであったことが最近になって分かった。

その当時師匠から時々苦言があった。

お前のところのコーヒーの悪口を言われると堪らんぞ。

師匠は何でそんなことを言うのかなぁという程度の思いしかなかったが、今から思えば、みんな探りに来ていたスパイだった。

結局は私ではなく、師匠がバカにされ、笑われていたのだった。

こんなに恥ずかしく情けないことはなかった。

何が何でも早く一人前になり師匠はじめ、家族や仲間たちに安心してもらいたかった。

いつも我々が閉店前になると師匠の石門さんが訪ねてきて厨房に入り手取り足取り教えてくれた。

その気持ちは痛いほどわかった。

ある時私は頭が痛くなって近くの大学病院に診察に行った。原因は無呼吸症候群で、睡眠が悪く脳が酸欠になっているといわれた。

完全にストレスからくる睡眠不足で過労状態であった。

故に宿泊での呼吸診察があった。

一夜明けて退院手続きを済ませ帰ろうとして野外の渡り廊下を駐車場に向かっていると、途中でバッタリ石門さんに会ったのだ。

なんで病院なんかに来ているんだとお互いに思ったのだ。

何せ二人は健康で病気とは縁のない体だったからである。

私は私の事情を話すと、あまり無理するな、体が資本だと言ってくださった。

で、師匠は何で病院なんかにいるのかと聞くとのどの奥に癌が発見されたのだ。

それから千葉の方に優秀な癌の先生がいるという事で転院されたと聞いてかなり良くなったと風の便りで聞いてはいた。

大学病院の渡り廊下で立ちながら、最後は柱にすがりながらズルズルと座りながら話し込んだ時が最後の出会いだった。

それから2年もしないうちに葬儀の案内が来た。

もっと自家焙煎の方法を学び師匠に喜んでもらいたかったものである。

後悔先に立たずである。

中々うまくいかず、憂鬱な時が過ぎていったが、良いこともあったのだ。最も反対していた家内が新品の1キロ焙煎機を買うことに賛成してくれた。

そして生産量が足りなくなると今度は4キロ釜も購入し生産量は倍増した。

中古というより卸業者リサイクル業者から仕入れて整備し中古品として売り出しいたのだった。

わしたち夫婦は広島にあるセイコーコーヒーを尋ね現物を見て現金で買った。

これが即ち焙煎師仲間では有名でありこれを持ち、使いこなしが極めて困難なことで有名で自慢の「幻のぶた釜」と言われる曰く付きの焙煎機であった。

そんなこととは露知らず、ホイホイと買ってしまったが、後が大変だった。

何せ、図面もなければ、マニュアルもない、その上交換部品も無かった。

製造会社は廃業していたのだった。

壊れたらおしまいであった。

故にいつも緊張して操作、整備にあたっている。

始めて十年したころやっと満足出来るようになった。

これだったら石門師匠にも胸を張って飲んでもらえると自信がわいてきたものである。

しかし、常に安心、慢心は禁物である。

コーヒー焙煎は機械工学、電気工学、流体工学、熱力学、栄養学、調理学あらゆる知識と技術技能が必要である。

多寡がコーヒー、されどコーヒーである。

しかし私にはずぶの素人でも必ずできるという、やってやれない事はないという、根拠のない自信確信があった。

工業高校機械科を卒業し、三菱電機IC製造技術を担当したものからすると、これらのすべての技術、技能、知識は準備していたのだった。

私が自家焙煎コーヒー、そして喫茶店を経営していると聞けば親戚や、同級生は何でだろうと疑問に思うだろうきっと。

しかし私にはわかる小さなコーヒー豆の中には宇宙がありあらゆる現代技術が込められている。実に神秘的な世界である。

今日はここら辺りでで休みましょう。

ブラザーズ珈琲物語2


2、献上珈琲との出会い
その頃、37年間ほど親しく友人以上の付き合いをしていた先輩がいた。

先輩というよそよそしい関係ではなく、正しく兄弟以上の関係であった。二つ歳上で困ったときは何時も相談に乗ってくれた。

況してや、初めて上京した時は常に後ろから付いて行き、その人のベルトに指をひっかけて着いて歩いた。

所謂、義兄弟のような人に相談したら一緒になって喜んでくれた。

じゃぁ、これから自家焙煎コーヒーをやろうといって盛り上がった。

平成2011月、店名はブラザーズ珈琲に決めた。

そして案内してくれた人と共にある朝早く、霜が降りていた寒い日、職人の店を尋ねた。

その人は、歳にして七十前後であった。

髪は完全に白髪であったが、顔つきや人柄は明るく穏やかな人であったので私たちは安心した。

何せ、献上コーヒーの職人と聞いて緊張していたのである。

挨拶も簡単に済ませると直ぐに自家製のコーヒーを出してくれた。

そして、その場で感想を言ってくれという。

コーヒーの感想など私に言えるはずもない。が、もう既に目の前にはコーヒーが出てきている。

ゴチャゴチャと言っている暇は無い。

一口飲んでみた。

うむっー!これがコーヒーか。

これまで経験したことのないものであった。

華やかで、フルーティな紅茶のようであった。

勿論、砂糖やミルクなど無関係の味わいである。

これまで、コーヒーには砂糖、ミルクは必須品だと思ってきたが、入れ無い方が良いことが分かった。

コーヒーの味即ち、苦味、酸味、旨み、香り、コクがバランス良く口の中に広がった。

これまで飲んできたコーヒーは砂糖湯だったことが分かった。

生まれて初めて経験した飲み物であった。

これが、献上珈琲との出会いだった。
                             以上

ブラザーズ珈琲物語1


ブラザーズ珈琲との出会い
私がコーヒーを始めたのはそんなに昔のことではない。未だ勤め人をしている時でコーヒーとは全く縁もないし、関心もなかった。


大体コーヒーは体に合わなかった。営業やサポートで外回りをしている時、大概接待にはコーヒーが出る。出すほうはお茶やジュースよりコーヒーの方が良いとして出してくる。


それは私にもよく分かっていた。しかし、同僚たちは喜んで飲んでいた。勿論、私も美味しいコーヒーを飲みたいとは思っていたが、現実は全く違っていた。体に合わないのである。コーヒー1杯飲むと十五分以内にトイレに駆け込んだ。その当時の私には何故そうなのか全く分からなかった。


同僚たちはお客様や出先の事業者たちと歓談しながら美味しくコーヒーを飲んでいたが、私には耐えがたい時間だった。もっと若いときは美味しさは大して分からなかったが、お腹が痛くなることはなかった。三十代頃からコーヒー発作が起こっていた。


もう最後のころにはコーヒーを見ることさえ苦痛であった。みんなはなぜこんな飲み物を飲むのか、何故私だけが腹痛が起こるのか?解決もしないまま、定年前の五十半ばになっていた時、米子では知る人ぞ知る事業家で政界でも結構顔の利くと思われる人が訪ねてきた。


「松永さんは顔が広いから尋ねてきました」という。私はよそ者で、決して顔など広くはないが、確かにボランテアや奉仕活動などやっていたのでそのように思われたのかもしれない。


「コーヒーが出来る人は知りませんか?」私は性格上知らないなどとは、言わない、言えない性格であったが、コーヒーだけは嘘が言えない。まったくもって知りません、分かりませんと言うしかなかった。


そうするとその人は大きな体格がうな垂れて寂しく帰ろうとした。私は思わず、あまりに寂しい背中を見て何故そんなに残念がるのかを尋ねた。


その人曰く「自家焙煎コーヒーが出来る人を探している。そして、そのコーヒーは特別なコーヒーで昭和天皇陛下が鳥取県米子市に御行幸の折、献上されていた職人の技を引き継いだコーヒーである」と。


松永であれば老若男女各界階層知り合いがいるはずだと思ったというのである。とんでもない思い違いではあるが、わたしがそんなに評価されているのかと分かり、悪い気分ではなかった。しかし、先に書いた通りであった。


何せ珈琲から逃げるようにしてきたこれまでの生活であったから致し方ないことである。「しかし後継者がいないという。成る程訪ねてこられた方の残念さが理解出来た瞬間であった。


そしてその時であった、何の根拠もなく、考えもなく私の口から飛び出した言葉があった。「私がやります。私に教えてください。」その人もビックリされたが、後でこの話を家族に報告した時も皆は、驚き、あきれ、罵声、罵倒、非難ごうごうであった。


しかし、不思議だったのは、私は何時もだったら、カァーとなって言い返し、引っ込みがつかないようになるのが常であったが、自分でも不思議なくらい静かに、冷静で穏やかだった。この話が私に来たことが不思議で天命を感じた瞬間であった。

あれから十八年が過ぎた。始めのころは話にならないくらいのコーヒーだった。あそこのコーヒーは不味いという噂を聞いては心配して師匠は夕方になると、私を尋ねてきてくれた。


そして、私のコーヒーを飲んでは、一つ一つ意見を言い、又は疑問点などに応えてくれた。何と有難い事であったろう。その師匠もそれから僅かの期間に亡くなられた。私を尋ねて来てくださった方も亡くなった。


普通の方よりも十年は早かったであろう。葬式の後、遺族の方を尋ねたら、師匠のことに話が及び生前は何時も私のことを気に掛け自分の弟子だと認めていてくださっていたようであった。

では献上コーヒーとは如何なるものであろうか?献上というからには最高級品でなければならない。国王、皇帝などの格位のある方に奉げるものである。


詰まり、原材料は最高級品であることは当然のことである。更には香り、味、酷、キレ、喉越し、後味、栄養、健康増進と病気予防など数えきれないほどの必要条件がある。このブラザーズ珈琲はこれらの条件をすべて満たすものである。


それは原材料は当然最高級品であるが製造工程も採算性を越えた製法である。その結果、ブラザーズ珈琲を飲んだお客様より様々な体験談が寄せられている。


その一つにこれまでコーヒーを飲むと不整脈や動悸などが出てコーヒーを飲みたいけれど飲めない人がブラザーズ珈琲を飲んでも体の不調は起こらなかったという体験など数多くある。


現在の珈琲店は小さく狭い間取りであるが、Googleで検索すると米子で一番おいしいコーヒー店としてブラザーズ珈琲がトップに提示される。2年ほど前に西福原から現在の東福原に移転し、一時、お客様の来店は激減したが今では地域のお客様が増えてきていると同時に遠方や県外、更には外国からのインバウンド客も来られるようになっている。

以上

店長からのコメント

店長いご夫妻

こんにちは店長の松永です。

最近は本物の珈琲が飲みたいと願う人が増えてきました。
その願いに答えようと各店でオリジナルコーヒーが作られています。
うちのお店にもオリジナルブレンドコーヒーがあります。
コーヒー豆の産地は世界中に散らばっています。
そのため豆には個性があります。
単独の豆のストレートコーヒーは美味しいですが、ブレンドしてもっとおいしコーヒーを飲んでもらいたい、と願うのがコーヒー屋さんの気持ちです。
なんどもなんども思考錯誤しながらでき上がったコーヒーは、飲んでもらいたいコーヒーです。
お客様がこられてオリジナルコーヒーを注文してくださいます。
嬉しくてとくに丁寧にいれたくなったりします。
飲まれる様子をみながら心は喜びでいっぱいになりそうです。
このコーヒー美味しいとお客様の声を聞いた瞬間 こころから喜びがあふれ出てきます。
おもわず私の顔が喜びの笑顔になっています。
コーヒーを通して心が通い合う素晴らしい瞬間を与えてくださったことを感謝しています。

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